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田舎ん田舎・三川内山 400年の歴史を誇る三川内焼の里
三川内焼の代表柄「唐子絵」三川内山には13窯元があります。
はじまり
豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を別名焼物戦争ともいいます。
この時、各地の大名達は秀吉に命じられ競って朝鮮の陶工を連れ帰りました。
26代平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)が慶長三年(1598)に連れ帰った
陶工の一人・古巨関(こせき)は藩主の命を受け平戸・中野で最初の窯入れをしました。
しかし良い陶石に恵まれなかった為、古巨関と息子の今村三之丞は平戸領内を陶石探索の旅に出て最後に落ちついた所が三川内だったのです。
歴史ある煙突や神社など数多くあります
三川内皿山誕生
二十八代平戸藩主松浦隆信は三之丞に三川内山に藩用の製陶所を開くことを命じました。
寛永十五年(1638)29代藩主鎮信は三之丞を皿山棟梁兼代官に任じ、寛永二十年(1643)には皿山役所の出張所を木原山と江永山に設けました。
これが三川内三皿山の起こりです。
芭蕉句碑
松尾芭蕉、俳句の神であり、 俳句をたしなむ人達は 句碑を建てて顕彰しました。
芭蕉句「山里の万歳遅し、梅の花」 『正月を門付けで祝って祝儀をもらう万歳も、田舎には梅の花が咲くころにやって来ることを詠んだもの』
世界に愛されました
南蛮交易で財政が豊であった平戸藩は、長崎出島にオランダ商館が移動した為、交易の利を失いました。
そこで藩の奨励により、御用窯が年と共に盛大になると、藩は販路を海外に求め輸出用陶磁器の開発に努め薄手のコーヒー茶碗等が開発されました。
文化元年(1804)にはオランダや中国に輸出し海外の王侯貴族に愛されました。
三川内焼の新たな出発
明治維新を迎え、三川内皿山も遂に御用窯から民窯に転じざるをえなくなりました。
200余年の間御用窯としてあった三川内皿山は民窯としての実績がなく凋落は目に見えてひどかったようです。
しかし豊島政治がこれを見て再建に乗り出し販路を拡張しました。
また明治32年(1899)三川内焼の伝承の技を守るために三川内山に意匠伝習所を創設しました。
三川内御用窯の優れた技術は伝習所の指導のもとに若い陶工たちによって受け継がれ、これに新しい意匠考案が加えられて、みごと今日に伝承されているのです。
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